5宝仙学園幼稚園教頭安藤裕子となります。 双子の息子ができ、私が選んだのは専業主婦の道でした。「自分の手で子育てをしたい」と思ったのです。そこには、自分の幼少期に親が家に不在がちだったことに対する思いが反映していたのかもしれません。 無我夢中で子育てをして、宝仙学園とは、我が子の幼稚園選びの際につながります。経験上、幼児教育の大切さを理解していましたから、納得できる園に出会うまであちこち探しまわり、「息子を預けられるのは宝仙学園幼稚園しかない」との思いに至ったのです。主人の実家は池袋にあり、「小さい子が通うには遠過ぎる」と主人には反対されましたが、偶然にも、主人の母の実家が宝仙学園の近くにあり、私の求めを義母が「いいんじゃないの」と後押ししてくれ、今度は保護者として宝仙学園と結びつくこととなりました。リレーコラム■宝仙学園の教育巡りめぐって宝仙学園の教員に。導かれて、この仕事をしています。先生に勧められて宝仙学園へ 秋田県の生まれで、両親は共に教員をしていました。家に親がいないことが多く、祖父母やお手伝いの方と過ごす時間が多い子どもでした。母が勤めていた小学校の隣に私が通っていた幼稚園がありましたので、行きは母に連れられて行きましたが、帰りは30分ほどの道程を子どもたちだけで歩いて帰ったのが、印象に残っています。幼稚園の先生は本当に温かい方でした。抱っこしてくれたり、膝の上に乗せてくれたり、そんなことがうれしくて仕方ありませんでした。 幼稚園の先生を目指すきっかけは、高校3年の担任の勧めがあったから。「安藤さんは子どもが好きそうだし、幼稚園の先生が向いている」と言ってくださいました。父に相談すると、父も同じ意見でした。 先生は教え子を入れた経験がある宝仙学園短期大学を紹介してくれました。当時、教職に対する反発もなかったわけではなかったのですが、「東京に出て、キャンパスライフを満喫したい」という思いも手伝い、大人の勧めを信じて、私はそこへの進学を決めました。何分田舎でありましたし、今と違い自分で手に入れられる情報が少ない時代でしたので、進路選択もそうした形で決まることが多かったと思います。子育てに勤しむ日々を選んだ 2年間の短大の生活は密度の濃いものでした。朝から夕方まで勉強し、帰りが夜10時になることもありましたし、2年次は実習の日々が続きました。秋田にいる頃に思い描いていたキャンパスライフなどは、ありませんでした(笑)。想像していた生活とは違ってはいましたが、とても充実した毎日でした。ダンス部に入り、創作ダンスに夢中になったり、自由な時間を楽しみました。今の主人との出会いもこの時期でした。 卒業後は秋田に帰り、地元の幼稚園に勤めました。主人とは遠距離恋愛で関係を保ち続け、2年後に結婚。再び上京し、新たな暮らしをスタートさせること子どもたちの母でありたい そこで出会ったのが、現園長の田中先生です。その時は共に保護者の立場でした。田中先生は、子どもが小学校に上がると同時に宝仙学園幼稚園に勤めたのに対し、私はその後もずっと専業主婦を続けていました。それから何年もたって、父の喪中の葉書を出したことをきっかけに、田中先生から「何しているの。幼稚園で先生を求めているから来てくれない」とお誘いを受け、ついに本園の教員となったのです。 このように振り返ると、宝仙学園とのご縁の数々は、不思議でしかたありません。思いがけず再び教職に就いた私ですので、教頭に指名されたのも驚きでしたし、今でも考えられないくらいです。 私は幼稚園では子どもたちの母でありたいと考えています。子どもたちや御父母が安心、信頼して通える環境、その子本来の姿を出せるような幼稚園でありたいと思います。この思いを胸に、皆さまへの感謝と謙虚な気持ちと忘れることなく、宝仙学園のためにこれからも人生を歩んでいきたいと思っています。
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