宝仙季報 No.162
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5宝仙学園中学・高等学校教頭中野 望叶いませんでした。 そんなことが重なり、悔しい気持ちを整理できずにいました。親には、この夏は勉強を頑張ると宣言し、図書館に通い始めたものの、どうにも身が入らない。そこで私がとった行動は、お盆頃に開かれる競技会への出場でした。そこで高校時代の自己ベストが出て、ようやく受験勉強に向かう態勢に切り替えられ、志望校合格まで自分を追い込むことができました。リレーコラム■宝仙学園の教育たとえ失敗しても、次に向かう気持ちが大切。スポーツ三昧の青春時代 出身は愛知県春日井市。4人姉弟の3番目の真ん中っ子です。一人目でも、末っ子でもないので、家庭の中では、「手がかからない子」という位置づけでした。とにかく自分を認めてもらいたくて、駆けっこで頑張ったり、一輪車などは夢中で練習していた記憶があります。 運動で目立ちたいという思いは、小学校高学年、中学になってますます強くなりました。小学校では陸上部、サッカー部、バレー部と、何でも挑戦。中学ではハードルに打ち込みました。小学校と比べると、ハードルの高さがグッと高くなるのですが、それを克服すると、インターバルを3歩で走れるように練習を繰り返しました。目標が決まると、集中して取り組める子どもだったと思います。 高校ではインターハイ出場を目標に定め、ハードル三昧の日々を送りました。高2の時にインターハイの一つ前の東海大会に出場。6位までが全国行きの権利を得られるのですが、結果は8位でした。そして、高3で再挑戦。最後の機会なので頑張りましたが、6位と同着。判定の結果、わずか1000分の2秒差で7位となり、インターハイ行きのチャンスを逃してしまったのです。失敗して、悔しくても、次がある 教員になろうと考えたのは、中学校の教員だった父の影響です。父の帰宅は早く、家族団欒を大切にしていました。そんな父の様子を見て、「教員って、早く帰れて、自分の時間を大切にできそうな仕事」と思い、毎日運動に親しめる体育教員を目指すことにしたのです。あまり褒められた動機ではありませんが…。 実は東海大会で走る前に、地元の国立大学から「インターハイに出場できたら、推薦で来てほしい」と言われていました。「受験勉強せずとも進路確定!」と張り切って臨んだ結果が、僅差で7位となり、それも挑戦し続けることを忘れないで 宝仙学園との縁は、大学の先生の紹介によるものです。当時は就職氷河期で教員採用試験は極めて厳しい状況にありましたから、大学の先生の紹介を信じ、採用試験を受けました。 中高女子部で14年ほど体育教員や入試広報部長として、共学部が開設9年目に富士校長が就任された際に、共学部の入試広報部長も任され、校長と共に学校全体の魅力づくりにも着手しました。 校長の意向により広報の方向性を検討し直し、生徒の姿をありのままを見せていく表現に変わります。例えば、学校説明会の校内見学の際も、案内役となる生徒用のレジュメは設けず、生徒には「自分で考えて、受験生が知りたい場所に案内してあげて」と、お願いします。生徒の言葉を直接聞いてもらうように努めるのです。良い面も悪い面もすべてをオープンにすることで、多様な生徒が門を叩くようになり、入学者は増加しました。大切にしているのは、生徒主体であることです。 最後に、うちの生徒に求めたいことをお話します。自身の人生を振り返ると、大きな挫折もありましたが、立ち止まらず次に進み続けたことが今につながっています。1000分の何秒差で人生が変わることも知りました。皆さんには、万が一失敗をしたとしても、次に拓ける未来があるはずです。失敗を恐れることなく、挑戦し続けてほしいと思います。

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