宝仙季報 No.163
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宝仙学園小学校教頭百瀬 剛てきて、餅つきなどをしていたことが強く印象に残っています。 受験の失敗で感じたのは、自分に専門分野がないことでした。自身を振り返るわけですが、絵を描いたり、ものを造るのが好きだったことを思い起します。実家の隣に工場がありまして、そこの家の子どもと齢が近かったので、連れ立って機械いじりに熱中していた時期もありました。 そして、美術を学ぶために上京し、新宿の予備校に通います。そこで出会ったのは、誰かと競うのではなく、自分自身と向き合う創造性という世界。得体のしれない魅かれる世界があって、取りつかれるように絵を描いていました。リレーコラム5■宝仙学園の教育自らの思いに忠実に生きられる大らかな時代があった。生きるための道理を身に付けた 故郷は栃木県宇都宮市大谷町です。大谷町は昔から建材として重宝されてきた大谷石が採掘される鉱山の町で、他地域とは異なる特殊な地域でした。私の小学校時代は、昭和50年代後半になるのですが、山の中の採掘跡には通気口として使った洞窟があちこちにありまして、中学年くらいになると、好奇心・冒険心が抑えられず、子どもらだけで隊を組み、探検していました。洞窟内は狭い上に真っ暗ですから、松明を灯して、中に入ったこともありました。 実は、親からは「山には入るな」「十分気を付けろ」と言われていたのですが、放課後は、放ったらかしで自由に遊ぶことができていましたので、そこまで大人による監視の目が行き届かなかったのでしょう。今では考えられませんが、そんな大らかな時代と地域の雰囲気がありました。ただ、子どもながらに安全への配慮はしていたようで、体力や度胸などの力量が揃ってない年齢の小さな子は、危ないという理由で、その隊には混ぜてもらえなかったことを覚えています。大人が寸暇を惜しんで働いていた一方で、子どもは遊びの中で、生きるための道理を身に付けていたのです。打ち込むことの大切さを知る 中学・高校になると、打って変わって部活一色の学校生活でした。小4から始めたサッカーは中高でも続け、目標に向かって打ち込む世界も刺激があって、家と学校を行ったり来たりの日々を送りました。部活では新人戦で優勝し、選抜選手にもなって、勉強も割としっかりやって、生徒会長にも選ばれていましたから、今考えれば優等生だったのでしょう。 小学校の先生になりたくて、大学は地元の国立大学を受けたのですが、うまくいかず一浪の身に。教員志望に迷いがなかったのは、両親とも教員でしたので、その影響を受けているのかもしれません。学校が荒れていた時代で、父が学校に馴染めない生徒を家に連れすべての挑戦が明日の糧になる 実は、就職活動でも自分は苦労しました。当時は教員採用は狭き門で、科目が美術となると栃木県内では100人以上の応募者がいると思われる中、2人しか採らないほど。大学の卒業時には教員にはなれず、大学院に進みつつ、中学校の講師をやったり、障害者施設の指導員をしたり、サッカーのコーチなどをしたりして、掛け持ちで仕事をしながら採用試験を受け続け、教員になる道を探っていました。そして、修士課程を修了し、「これからどうしようか」と思っていたところで、声を掛けていただいたのが宝仙学園でした。 今の子どもたちに求めたいことをお話します。今日お話しさせていただいた、自分自身の生き様にも関わることなのですが、「将来役立つかどうか?」と考え過ぎて、道を狭めるのではなく、面白そうと感じたことはチャレンジしてみるべきです。私の場合、小学生の頃の冒険活劇もそうですし、サッカーも、機械いじりも、絵画に夢中になったことも、すべて小学校教員という仕事の糧になっている気がします。何がどういうふうにつながり、実るかはわかりませんので、感じたままに挑戦する気持ちを大切にしてほしいですね。

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