『宝仙季報』(166号)
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宝仙学園の教育子どもの頃から好きだった「ものを作ること」⾃分の美術表現を探した大学時代「触れる」という感性を伝えていきたいリレーリレーコラムコラムこども教育宝仙大学 学部長捧 公志朗個展「触れるという経験」(1992年)での作品《Untitled》。1tの油粘⼟を使った器状の⽴体作品。5 卒業後の5年間は、教職課程のためのデザインと⼯芸を指導する研究室の助手として大学に残りました。助手 の最後の年に、当時は女子短大 だった宝仙学園短期大学の生活芸術科で専任教員を応募していることを知り、学園とのご縁をいただきました。 それから33年が経ちますが、その間に私が所属した短大部門も社会の動きと連動して変化し、現在の四年制大学となりました。教育の⽂化は簡単に築けるものではなく、その場所でずっと息づいている無形なるものだと私は考えますが、育んできた⽂化を大切にしながら様々な壁を乗り越えていける学校には、どのような時代でもしなやかに対応できる強さがあるはずです。宝仙学園は、まさにそうした強さを持つ学園だと感じます。 そして宝仙学園は、人と人とがつながる場所だと思います。これは人同士 が丁寧に向き合える時間と空間がつくられているということ。安心 できる教育環境がなければ、子どもたちは本来の人間性の輝きを放てません。そうした日々の生活のなかにこそ、学園の人 間教育があると感じています。 私は人間の感性は「触れる」ということが根本にあると考えています。視覚的な表現分野である美術も、ただ見るだけでなく実際に手で素材に触れて造形を味わうことが大切です。これからもこども教育と美術を通じ、人間の感性について丁寧に伝えながら、学園の⽂化の継承に関わっていければと思います。 私が生まれ育ったのはステンレスの町としても知られる新潟県燕市です。両親は地元の洋食器と北陸や東北地方の漆器を扱う問屋業を営んでいました。当時は高度経済成長期で 日本の景気は右肩上がり。日本の家庭での食事スタイルの変化や、会社や地域でのイベントも盛んで、食器製品やギフトの需要がとてもありました。両親は仕事に忙しく、あまり子どもにかまう余裕がなかった時期に育ちました。そうした環境のもと、私は家のなかで過ごすことが多く、幼児期はぬり絵や折り紙、小学校に入ってからは絵画やプラモデル作りに夢中でした。 美術の道に進もうと思ったのは、高校2年生の頃。好きな教科は国語と数学と美術でしたが、漠然と自分には美術しかないと思い、美術大学への進学をめざしました。長期休みには東京の美術予備校に通い、70枚ほどの⽯膏デッサンを描きましたが、講師の先生から評価を得られるくらいの力が⾝につきました。 大学は武蔵野美術大学に進学し、油画を専攻しました。入学後はまた⽯膏デッサンからのスタートで、予備校でやってきたことの反復に、次第に新しい美術表現への関心が強くなっていきました。そうしたなか、特出して個性の強い⾯⽩い人たちが集まっているサークルがあり、私も入部することにしました。そのサークルは、四年間続けたボクシング部でした。自分でもボクシングを始めたことは意外でしたが、絵を描くときの画⾯に向かっていく感覚と、相手との一対一 の緊張感のなかでパンチを出していく瞬間がよく似ていました。この全⾝のエネルギーを一点に集中させて一気に出力していくという感覚は、自分自⾝にとって美術表現を鍛えるトレーニングになるものでした。 大学での制作活動は、絵画から徐々に 木材を使った空間作品に変化していきました。そうした作品を⾯⽩がって下さったのが、ベルリンから帰国したばかりの小野皓一先生でした。当時の現代美術の動向やイタリアのアルテ・ポーヴェラという芸術運動についても教授して下さり、⾝近な素材でも豊かな作品を生み出せることを学びました。⾃分⾃⾝の感性を大切にしながら、これからも宝仙学園の⽂化を継承していきたい。

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